都市と地方の生活

 

 わたしが考古学の調査を行っているのは、ルソンの東北部を流れるカガヤン川の下流域にある貝塚群である。マニラからは国道5号線をバスで北上して約600km12時間ほどかかるカガヤン州ラロという町に貝塚はある。カガヤン川はラロの町域で500m以上の川幅をもち、周囲の山々から集めた水を湛えてゆったりと流れ、ルソン島北端のアパリの町で海に注ぐ。ラロはかつてヌエバ・セゴビアと呼ばれ、16世紀後半のスペイン人到来以来、19世紀のはじめまでカガヤン州の州都であり、また大司教座が置かれるなど、ルソン島北部経営の中心地であった。しかしそれも遠い昔のこと、現在ではスペイン人の血を濃く残す数家族の存在や、タバコ工場跡、古い教会などがかつてをしのばせるのみである。最近の出来事では、70年代に一時木材業で活況を呈し、町に多くの製材所が操業していたが、90年代に入って森林伐採が禁止されてからは電動ノコの音も絶えた。しかし70年代以降に整備された灌漑用水路のおかげで、二期作が可能となり、米作を中心とした農業が盛んである。そしてカガヤン川に面した村々では貝の採集や漁業を営む人びとがいる。貝塚はカガヤン川を何千年にもわたって生活の拠り所としてきた人びとによって築かれた遺跡である。

貝塚は先史時代のひとびとが貝を採集して食料とし、あとに残った貝殻を廃棄したものが、長年の間に積もり積もったゴミ捨て場の跡である。それがラロでは300年前から続き、いつのまにか東南アジア最大の規模をもつ遺跡となった。貝塚には貝殻だけではなく、動物や魚、植物の種など、当時のひとびとの食べ残しが貝殻とともに廃棄されている。もちろんそのほかにも考古学になじみの深い、破損した土器や石器が含まれている。貝塚は人びとの生活の痕跡が記録されたタイムカプセルということができる。 

しかしラロ貝塚からは何千年も昔のものばかりが出てくるのではない。現在でも貝塚の上に人びとが住み続けているためにゴミの集積が続けられており、貝塚の一番上の層にはビールの栓やコーラ瓶のかけらなどが出てくる。そのなかで最近、ハンバーガーやピザショップなどのビニール袋を目にするようになった。この理由は90年代以降、ショッピングモールやファーストフードショップが、地方都市に続々と進出してきたことによる。ラロ町の中心であるラロ・セントロでは、マニラで見かける名前のハンバーガー屋の屋台がいくつも見られるようになった。以前はマニラでしかお目にかかれなかったハンバーガーやピザの店に地方の人びとが日常的に接し、ファーストフード文化の「洗礼」を受けるようになってきた。冷めたピザが町から村へと持ち帰られることはないが、ビニール袋のほうはどんどん入ってくる。実際、最近のフィリピンにおけるショッピングモールとそれに付随するファーストフードチェーンの地方進出は目を見張るものがある。マニラやセブなどの大都市で飽和状態となったチェーン店が、ドッと地方に押し寄せた観がある。発掘現場に見られる最近のゴミの傾向が示す消費文化の浸透は、都市と地方の間の溝を埋めつつあるかのようである。

都市と地方の生活はしばしば対比されて語られてきた。都会ではいつも忙しく働いてお金を稼がないと食べては行けないが、地方ではのんびりとしたテンポで、少々お金がなくても生きていけるとか、都会ではいつも新たな刺激に満ちているが、地方ではゆったりとした日常が繰り返されているなどと語られる場合が多い。確かに、地方にはマニラの交通渋滞も林立する高層ビルもない。しかし消費文化の浸透はマニラとの距離を埋め、携帯電話やケーブルテレビの普及は情報社会の中に地方を確実に取り込んできている。地方ではまだ限られた人びとしか消費文化を享受できないにしても、電力、通信、交通などのインフラが徐々に整い、田舎の人とはいえ都会についての情報は豊富に持っている。地方の人びとは決して情報から締め出されている閉鎖空間に生活しているのではない。

いっぽう、地方の町から都会へと教育や生活の場を求めていく人びとも多い。半日がかりのバスの旅でラロの町とマニラはつながっている。故郷を出てマニラに生活の場を求める人びとは、まず家族のメンバーや親戚、友人など、すでにマニラに出て生活している人をたよることになる。そうした人びとが徐々に増加して、マニラにはフィリピンのさまざまな地方から出てきた人びとが集まってできた地区がいくつもある。そのような地区には故郷の名前が付けられているので、その地区名でどの地方から出てきた人びとが住んでいるのかすぐにわかるようになっている。故郷で培われた絆をたよってマニラに生活基盤を築いていくわけだが、地方から出てきた人びとすべてに安定した職場が提供されているわけではない。マニラも他の発展途上国同様に過剰都市化傾向を示しており、都市に出てきた人びとすべてを抱え込めるほど産業整備が進んでいるわけではない。こうして職にあぶれた人びとは地方にUターンするか、マニラにおける故郷との絆、すなわち家族、親戚、友人との相互扶助的結合関係に、経済的な支援を求めながら生活を続けていくことになる。こうして生活基盤をマニラに置くようになった人びとも、地方と切り離されずに、故郷との絆を確かめ合いながら生きていく。クリスマスなどの休日を利用して帰郷した際には、マニラでいま何が起こっているか地方にさまざまな情報がもたらされる。

 都市と地方は決して分離された空間ではないが、確かに両者の間には埋められない溝もあるだろう。例えば地方を対象とした開発の問題である。フィリピンにおける開発についてはすでに経済学から文化人類学まで、それぞれの専門家がさまざまな視点からの議論され、また実際にNGOの活動などで主体的な関わりをもつ人びともいるので、考古学者であるわたしが専門的な領域に口をはさめるものではない。ただフィリピンの一地方に長く住んでいて思うことは、いつも地方から遠く離れたマニラで地方の開発が計画され、語られていて、はたしてどれだけ地方の人が開発の恩恵に浴することができるのだろうかということである。開発は地方の人びとの人生に幸福感をもたらしているのだろうか。開発がしばしば地方の人びとの利害に合致していないといわれるのは、国家という枠組みの中で、中央と地方が対立的に捉えられており、周辺には利益も情報も流れにくくなるという必然性があるからだろう。国家どうしで境界線が決められ、そこに住む人びとが知らないままにいつのまにか「地方」が誕生してしまった。考古資料の示すラロのかつての姿は、海に開かれた地の利を生かし、数千年前から連綿としてアジア諸地域と交流を繰り返してきたというものである。現在のラロの人びとは地方に暮らす自分の見定め、マニラとの往復の中で、新たな人生の模索を続けている。

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